もういい、ともかく仮面をはずそう。
もはや「身体」はただ単に「身体」なのだ。
わたしたちは、舞台で誰かの「役」を演じる必要などないし
「魅力的な」(とされる)、戯曲の登場人物に変身する必要もない。
それよりもーいささか危険はともなうけれどーわたしの「身体」と、
あなたの「身体」とのアクチュアルな交換の可能性に賭けてみること、
そこでわたしとあなたの編みだした「身体」によるコミュニケーションが、
現実世界にたいしてどのように機能してゆくのかたしかめること。


・Transformation(生成変化)は、身体を管理している「文=法」を「転倒」させることーたとえば舞踏の始祖である土方巽は次のように言っている。〈この春先の泥から教わったことは、神社仏閣の芸能と無縁のところから私の舞踏が始まったんだ、ということ。それは断言してもいいんじゃないか、と思うんです。〉(舞踏フェスティバル85 前夜祭講演より)ここで重要なことは、「春先の泥」が、私=自己よりも先に意識されているということである。言い換えるなら「他」、「他者」、「他なるもの」との関係に優位を置く哲学に徹底して貫かれているのだ。それゆえに舞踏は、「神社仏閣の芸能」という共同体の踊りとは異質なのである。
このような思想に導かれた「文=法」を生成させることを通じて、やがて少しずつ自己にかかわる関係を変化させていくことに繋がるだろう。
水平線を見ている、のではなく見られている、あるいは水平線から呼びかけられている、私は横たえる、のではなく床のやわらかさに奪われる、私は歩く、ではなく外の気配に押し出される気流に運ばれる、私は立つ、のではなく空に向かって落下し続ける・・・


・Nervous System(神経系)は、ダンスを楽曲のリズムではなく、神経で踊るということだが、ではどうするのか。たとえば、己の身体は、(両親、友人、恋人、先生、等々)己が愛した他のものたちの、無数の身振りが集積されたものではないか。それらの身振りを記憶の中から掘り起こして、実際に動いてみよう。
さて、この身振りの動きに楽曲を重ねるならそれはいわゆるダンスになるだろう。けれども私たちはそうしない。なぜなら楽曲のリズムが強制してくる速度と情緒の暴力から覚醒したいからだ。だから神経で動かしてみよう。身振りが始まった時にはすで終わっているような時間ーその都度、勝手気ままに生起する、繊細な神経繊維の隆起が、己の身体の皮膚を、つまり自と他を区別するこの境界を振動させる。その持続のただなかで、境界は砕け溶け出していく。


・Phantom Pain(幻影肢)
ときに幻視痛などとも呼ばれているが、すなわち延長された知覚によって四肢を動かしていくこと。ゆえにここには身体を計る基準はない。手足の長さ、寸法を計測する目盛りもない。諸身体を差別し階層化する一切のハイアラーキーは存在しない。


・Repetition(反復)
〈反復〉を批判しそこから覚醒するためには、〈反復〉がどのような事柄であるのかを、分析しなければならない。
わたしには、〈反復〉には三つの形式があるように思える。
一つは(字義通り)単にくりかえす。それも、ひとつの言葉、ひとつのリズム、ひとつの快楽を、くりかえし、くりかえし身体に刷り込む。そうすることで、迫力とか生のエネルギーとか呼ばれているものの、回復が目指される。洗脳、プロパガンダ、そしてメディアイメージ——それらはくりかえす。同じことを。きりもなく果てしもなく、単に反復する。
二つ目は、過去のトラウマ記憶が現在に蘇る。〈反復〉してくる。それらは一定の周期で歴史性を伴いながら、個の身体めがけて襲来してくる。
そして三つ目は、二度と繰り返し得ない、そのことの〈反復〉である。それは「他者」を鋭く意識させ、かつ「歴史」を想起させる。