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帰還なき往相の遊行劇

『遊行の景色 2』

西堂行人


解体社がこの二年間、檜枝岐のパフォーマンス・フェスティバルで展開中の野外シアター・パフォーマンスは、劇表現の帰趨を問ううえで多くの示唆を与えてくれる。

 野外性、白昼性、非物語性、空間の移動などそのいずれをとってみても、既成の劇概念に組みこむことはむずかしい。彼らは、今年の初めに鎌倉・横浜国大の朽ち果てる寸前の学生寮中庭にて、やはり野外劇を試みているが、どうやら彼らが挑んでいる空間や時間(その包括概念としての〈場所〉)は、われわれが通常見慣れている芝居のそれとは大きく隔たっているにちがいない。

 檜枝岐で上演(遂行)された『遊行の景色 2』は、一つの広場(デトバタ・駐車場)から開始される。黒い喪服を身にまとった役者たちは、一台の大きな山車(だし)を舞台にはじまりのセレモニー(葬儀 ?)を行い、やおらこの山車を路上に向けて出動させた。夕方の暮れなずむ景色を背景に、彼らのオープニングは闇ならざる白昼性を強引にねじ伏せるかのような暴力性に溢れていた。その暴力性と軌を一にしてか、アクシデントが生じた。この山車を広場から路上に繰り出す過程で、車輪が破損し、事実上移動不可能になってしまったのだ。劇の背景=装置でもあり、時には劇の仕掛けにもなるシンボリックな存在でもある山車。この機能停止は、彼らのこれからの行為(パフォーマンス)、その行程と展開を大幅に狂わすものとなった。

 だが、彼らの対応は素早かった。半日がかりでこしらえた山車をあっさり見限り、(むろん口惜しさもあったろうが)この山車に仕込んであった音響の機材やらいくつかの道具ートランク、鉄線、砂袋らを自らの手で、持ち出し、運びはじめたのだ。この潔さは、たしかに野外劇ならではのものだろう。通常、劇場という壁に防御されている演劇には、こうしたアクシデントはめったに起こらない。しかも彼らにとって、この道具(オブジェ)はほとんど唯一の道具=手段ともいうべきものである。つまり、このオブジェを失っては、彼らはほぼ丸腰になってしまうのだ。わたしは、この対応の素早さと潔さに、ほとんど感動させられてしまったのだが、その感動の質とは、実は彼らの営み(パフォーマンス)に本来、内在したものなのである。あらかじめ設定されたスコア(進行用台本)を忠実にたどっていくことで劇たらしめるのではなく、次から次へと訪れてくるアポリア(難局)に立ち向かっていくことで文字通り劇行為を遂行する。そのさい、行為者たちの表現の質は、その対応の中にこそ逐一露呈されてくるのだ。このアクシデントは、そうした恰好のバロメーターとなった。困難な局面を逸早く取り込み、その反射行為として劇を成り立たしめていく表現者のたくましさが、確実にここには存在したのである。

 路上に出てから、解体社の八人の役者たちは、いくつかのチェックポイントを除いて、各自がほぼ勝手気儘な演技を行うことになる。何が起こるかわからない不確定要素を抱えたまま、わたしは数十人の観客(?)とともに、延々と三十分ばかり、彼らの遊行についていくことになった。たしかにいつ終わるともしれぬ歩行による移動は、不安と期待が入り交じり、引き返すにもどかしい不思議な時間を拡げていった(他の会場では、舞踏のプログラムが同時進行していたのも心に引かれていた)。

 わたしは、この過程でいくつかの注目すべきできごとに出会った。一つは、時折、彼らが即興的に演じる寸劇が、路上では違った彩りで見え始めてきたことだ。彼らのセリフ術の巧みさは、すでに数年間の小劇場で十分に研鑽を積んだものである。だが、オープンスペースに立っても、その凝縮力はいささかもたじろくことはなかった。彼らの発語は、そのまま空間をわし掴みにし、濃密化する。つまり、彼らのとりまく数メートル四方が、その瞬間、劇的な虚構の空間に変容するのだ。彼らの語り出す言葉は、ほとんどノンセンスで日常的な挨拶や掛け合い的なものに近い。にもかかわらず、彼らの〈声〉は、空間の組成を明らかに組みかえて虚構化してしまうのである。その虚構化された時空はそのまま固着して、一つの物語へ向かうものではない。濃密化された時空は、次の瞬間、風の流れにまかせてたちどころに拡散・霧消していく。したがって、ここでは劇の時間は一元的に構築=求心化へ向かうことはなかった。求心化とともに離心化していくベクトルが同時的に働いている。そうして、この自在さ、流動化を保証しているのは、彼らが他ならぬ身体的存在であるということに改めて突き当たるのである。

 身体(的存在)は、その場に生成する関係性の波をほとんど即興的に生きることを強いられる。解体社は、そのさいあらかじめ言葉によって規定される物語を排除していった。少なくとも、物語という全体的、構築的な時間へ身体を奉仕させないという原則だけは守られていたように思われる。そのために、身体が場となり、それを媒介にして劇が発生、消滅を繰り返すことが可能になったのだろう。

 路上でのパフォーマンスは、いくつもの偶然性を招き寄せた。彼らは、あらかじめ目星をつけておいた地点で歩行を停止し、道路から草木をかきわけて、一人の役者が森の中へ姿をくらます。しばらくして、一本の大木によじ登った役者が再登場する。彼は前もって一本のピアノ線を携帯しており、その結果、道路脇のガードレールに一本の目に見えぬ糸が渡されることになった。また、シンセサイザーからワルツが流れはじめると、その曲に合わせて、花嫁衣装を着た一人の女舞踏手が静かに、次第に激しく踊りはじめる。いままでバラバラに移動していた役者たちは(それにつられて、客の方も分散していたのだが)この地点で合流し、一団の塊となってゆく。それにともなって、客たちも次々と路上に座りはじめた。こうした一群は、ここら一帯を虚構の空間へとなだらかに変容させていくのである。座るという行為は、ここでは重要である。なぜなら、座ることによって人間は集中力を高め、〈見る〉行為は能動性を昂進させるからである。(劇)行為者とそれを見る人(観客)が出会うとき、そこが劇場、つまり劇を演じる場が発生する。こうした演劇の始源的なあり方が、自然発生的に芽生えていく現場性をわたしはたしかに目の当たりにした。路上という日常的な場面から日常原則と決定的に異なった想像力の領域へとわれわれは身体ごと移動してしまったのだ。そのとき、観客は個別の特権化された「意識」として存在するのではない。「集団の意志」が場の約束事(例えば座ること)を決定していくように、観客同士のあいだでゆるやかな関係性が繋がりはじめたのである。それはまた、集団が一つの場を形成するときの約束事(ルール)が、観客の直接体験をとおして発見されていったとも言えるのではないか。このルールとは、ここでは「演劇」と言いかえることもできよう。観客は、劇場の中で見ることを強制された息苦しさから解放され、ゆるやかな関係性、すなわち眼前で繰り拡げられているパフォーマンスを見てもいいし、見なくてもいいという選択権のもとで、能動的に見ることを択びとっていったのではないか。

 劇が役者の身体を磁場に形成されるように、観客もまた自らの身体を磁場にして内なる劇を体験する。両者が同時的存在であるというのは、その身体性が同一平面上にあるからである。少なくとも額縁の向こうで演じられる劇にうまく反応できないでいる観客像とは、およそちがった出会いの構造が、この時この場で生成されたことは疑いえないだろう。

 濃密化と拡散化、求心力と離心力、この相反するベクトルを同時に兼ね備えることができるには、開かれた場を必要とする。だが、そのために解体社は、いわゆる「芝居」というものを手離して、場の全体化の企画(プランニング)に向かったと解するのは間違いだろう。むしろ芝居の技芸、身体を軸にした演技術をじっくり練りこんだうえで、それらが一元的な構造に向かわないという点にだけ留保をつけていたのではないか。等身大の物語にたどり着かないもう一つの演技の萌芽がここに窺えるのだ。劇行為の向こう側に予測しがたい空白を想定し、その空白に向けて、彼らの劇を旅立たせようとする。その結果として、観客は〈空白〉のなかにさまざまな想像力を注ぎこみ、多様なドラマを体験したのだと言ってもよい。演劇の要素を次々と剥いでいき、情報量を減少させ、シンプル化していく先に見えてくる演劇のヴィジョンとは、おそらくこうした明快さと直接性をもつものだろう。

 演劇に過剰性を持ちこむことをわたしは否定しない。壮大な物語の創造によって、等身大の現実を侵犯していくこともまた十分に刺激的だ。だが解体社の志向するものが、そうしたものと対極に向かっていることはここで押さえておきたい。それこそが、彼らの集団性と方法論を特徴づけるものなのである。

 彼らの道行がどういう結果を迎えたかをもってこの論考を締め括ることにしよう。

 道行く車をもせきとめてしまった解体社のページェントは(事実このパフォーマンスを訝し気に、または興味深そうに面白がっていたドライバーは、かなりの数に上った)、川原に漂着することで、クライマックスを迎えることになる。川の速い流れのなかに入っていった役者たちは、そこに鉄の棒を川底に打ち込んでいく。次に彼らは、この棒にまといつかせた紙片にバーナーで次々と火を放っていった。陽がようやく暮れ落ちる刹那を見はからってか、その火は鮮やかに川面を走った。

 それから……
 そのあとをわたしは見ていない。舞踏を見るために別の場所に移動したため、その結末をわたしは知らない。最後まで見届けていた客から話しを訊いても、その幕切れが杳として掴めない。そこでわたしは勝手に推測するのだが、おそらく役者たちは川の上流へ上流へと水の流れに逆らって上っていったにちがいない。熱心な観客は川原づたいにどこまでも追いかけたことだろう。だが、彼らを追い切るには、ついに川の中へ入っていかねばならないという段になって、その追跡を放棄せざるをえなかった。最後の目撃者の視界から、解体社の一行は消え、水嵩を増した川のなかへついに没していったにちがいない。壮大なパフォーマンスの道行として、そうした幕切れ以外に、わたしには考えられないのである。わたしは、想像力のなかでそう結末づけている。

 帰還なき往相の旅、彼らの道行は帰路をもたない一方向のみの旅だ。彼らが最終地を川原に択んだのは、けだし必定というべきだろう。わたしは、檜枝岐でその後彼らに会っていない。

 東京に帰ってからしばらくして、久し振りに解体社の清水信臣に会った。彼は、往相の旅からやっと戻ってきたばかりのさっぱりとした顔をしていた。



1986年 解体社公演チラシより