かなしいかな。やがてその時は来るだろう、人間がもはやどんな星をも産み出さなくなる時が。かなしいかな。最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう、もはや自分自身を軽蔑することのできない人間の時代が来るだろう。見よ。わたしはあなたがたにそういう末人を示そう。[1]


ポストヒューマン・シアターにあっては、劇場から「人間」が廃棄される。


であるならロボットに演じさせようなどということではむろんない。
あれはフェティッシュにすぎないとかいうよりも、実のところ、ロボットを通して「人間」への「進化」が夢見られているのだから。
だがしかし、ヒューマニティの回復など、もはや反動である。
「人間」はすでに消滅したのだ。そしてわれわれは末人である。


だから今日、ポストヒューマニティともよぶべき末人の属性が問題化するもの
それは「進化」ではなく「反復」である。
それゆえ、「進化」を産出してきた「啓蒙」が揚棄されることになるのだ。
プレヒューマンに見いだされた最下等の現実とともに—


この舞台に「人間」に代わって登場する者、それは「人体」であり「肉体」や「身体」などではない。かつては、それらと「人間」との「豊かな」関係を語るために〈アポロン/ディオニュソス〉が召喚されたが、われわれの探求する「人体」は〈ビオス/ゾーエー〉の対概念で分析されることになる。


さてこの「人体」は、一方で、光彩から臓器そして遺伝子にいたるまで被験され評定され売買され、あるいはまた、刻々とサイバースペースに自らの内部を曝し露出し攻囲され果ては要塞と化したポストヒューマンの群れとなり日々リサイクルされ末人都市ビオスを無限ループする。
これらポストフォーディズムに順応しポストヒストリカルな生をサバイブする「人体」にとってはアポロンへの希求も、ほんとうの自分になるためのディオニュソス的秘儀など遺棄されるほかはないだろう。


他方、これらすべての「人体」に、等しく—
そして思いがけず訪れる「病者の身振り」は、
ポストヒューマニティの可能性を考察するうえできわめて重要である。


それらはときに
不随意痙攣
パニック
離人
自傷などとよばれる「病者」の営為であり、反復強迫の世界で起こる身振りの謂いだがわれわれは、これらの営為をビオスとゾーエーの境界に生起する「抵抗の身振り」として捉える。
これら身振りは表明する。すなわち「わたしは、いまだ、ゾーエーではないのだ」と。
たしかに、この反復営為はその反復性ゆえに「進化」はない。
けれどもその無・時間性こそが、「抑止解除された空間」を出現させるのだ。
いま、ここに「歓待のとき」がひらかれる。[2]


われわれが構想するポストヒューマン・シアターは、「病者の身振り」を採集し「歓待」にむけて舞台化する。その上演は、われわれが紛れもなく末人であることを告知し、そこからの覚醒を指し示す。
人間以後の劇場(ポストヒューマンシアター)には、ゾーエーという理念がもたらす新たな「啓蒙の時代」が到来しているのだ。



「ポストヒューマンシアター断章」より  清水信臣/劇団解体社・演出


[1]ニーチェ『ツァラトゥストラ』、手塚富雄 訳、中央公論社、1978年
[2]到来者にはウィ(oui)と言おうではありませんか、あらゆる限定以前に、
あらゆる先取り以前に、あらゆる同定 (アイデンティフィケーション) 以前に。  
ジャック・デリダ『歓待について』、廣瀬浩司 訳、産業図書、1999年