ポストヒューマン・シアターの起源と未来

鴻 英良


―ポーランド演劇の衝撃:日ポ演劇交流の起源―

 1960年代の日本の現代演劇の台頭と成立過程の中でもっとも重要な役割を果たした演劇書を3つ上げるとすれば、それはアントナン・アルトーの『演劇とその形而上学』(安堂信也訳、白水社、1965年)、ピーター・ブルックの『なにもない空間』(高橋康也訳、晶文社、1971年)、それにイェージュイ・グロトフスキの『実験演劇論―持たざる演劇をめざして』(大島勉訳、テアトロ、1971年)であろう。

 これらの演劇書は演技、もしくは身体性に着目して演劇を再構築しようとしていたものだが、そのうちの一つがポーランドの演出家によって書かれたものであったために、現代演劇のメッカは、ニューヨーク、パリ、そしてポーランドだというようなことがまことしやかに語られていた。そして、1979年には寺山修司の演劇実験室天井桟敷が出していた『地下演劇』の第13号(1979年2月20日発行)でタデウシュ・カントールの特集が組まれ、それに連動する形で1982年、鈴木忠志が始めた国際演劇祭第1回利賀フェティヴァルにカントールが『死の教室』をもって初来日公演を果たし、多くの日本の演劇人に衝撃を与え、日本の現代演劇におけるポーランド演劇に関する関心が再び一気に高まったのである。

 実際、近代劇からの離脱を図り、世界の新たな現実に呼応する演劇を構築しようとしていた1960年代以降の日本の演劇人にとってポーランド演劇は独特の位置を占めていた。それは自分たちの創造活動の批判的もしくは肯定的な参照例としてきわめて重要な役割を果たしていたのである。

 日本にやってきた演劇実験室(テアトル・ラボラトリウム)の演出家グロトフスキが鈴木忠志の案内で青山の銕仙会を訪れ、観世寿夫の能の稽古を見たことがあった。そこでグロトフスキは能の表現方法はブレーキの暴力だと言った。鈴木忠志はこの定義に感心し、さらに自分の演技論との共通性を直ちに見出し、これは表現上の仕掛けとしての肉体の抑圧に無自覚な日本の演劇人に対する絶妙な批判的言説と理解したのである。このような思想的共感が鈴木忠志とグロトフスキとのあいだにはあったのであり、そのような関係が、ポーランドと日本の演劇のなかには流れていたのである。

 寺山修司も『迷路と死海』のなかで、グロトフスキの演技論は、戦後ポーランドの可視的ユートピアとしての社会主義の虚妄性に対する抵抗ではないのかといった驚くべき考察をしているが、いずれにせよそのような思考を寺山に促すということのなかにポーランド演劇の意味があるわけである。太田省吾が沈黙劇を見出したのもポーランドにおいてであり、ポーランドと日本の演劇との関係は深い。その流れを自らの中に取り組むことによって日本の現代演劇の新たな展開が可能ではないのか。


―ポストヒューマン・シアターの新たな展開へ向けて―

 このような視点から4、5年前に、日ポ演劇協会のようなものが構想された。協会そのものはまだ実現してはいないが、そのような流れの中で、解体社のポーランド・ツアーが行われ、2012年、南西ポーランドの山間部の町イェレニアゴラで日本の劇団解体社とポーランドの劇団テアトロ・シネマとの出会いがあり、交流が始まった。テアトロ・シネマの山荘、兼アトリエ稽古場は、世界で最初のプロレタリアートの革命的作家ゲルハルト・ハウプトマンの家から歩いて40分ぐらいのところにあり、ここで身体と身振りについての熱い議論が闘わされたのである。二つの集団の考えは必ずしも同じではないが、現代文化の病理と演劇が交錯する場所では、身振りは重要な争点であり、それを体で実践することが重要であるということでは一致していた。こうして身振りの現在を共同で探求する共同制作が始まったのである。

 それを彼らはポストヒューマン・シアター・プロジェクトと名づけた。解体社の演出家、清水信臣たちはわれわれの置かれた状況におけるわれわれの体を、肉体でもなく身体でもなく、人体と名づけ、それを戦争神経症患者の体と結びつけ、神経の震えとともに演技する俳優たちの身振りを探求していった。また、テアトロ・シネマのシュムスキたちは失われた記憶と物語を想起し、それとともに出現してくる誇張された非日常的な身振りの数々を編み出していった。いずれの場合も、身振りが失われた時代にいかにして身振りを取り戻すことができるかという問いに対する回答の試みであることは明らかであった。3年間に及ぶこのプロジェクトの第1期は終わりを迎えつつあるが、彼らの間の違いが文化的、歴史的に何を意味するのかなど、今後の共同作業においてさらに構造的な考究が続けられなければならないだろう。ジョルジョ・アガンベンはフーコーの『監獄の誕生』を参照しつつ、「身振りについての覚書」のなかで、「西洋ブルジョワジーは、19世紀末には自らの身振りを決定的に失っていた」と書いたが、世界的な規模で展開する世界の収容所化のなかで、事態はさらに悪化している。

 それゆえ、われわれは失われた身振りの新たなる獲得へ向けての物質的かつ思想的な戦いの戦略を演劇的に構築しなければならない。その意味でこのプロジェクトは、いま新たなる開始の地点に立っているのだと言えよう。


(演劇批評家)