ポストヒューマン・シアター 覚書

ズビグニェフ・シュムスキ




 私たちの送別は、歓迎とどこか通い合っている。別れるときの私たちは確信している――私たちの協働はあらゆる分類からすり抜けてしまうということを、そして、それに名前を付けることができるとすれば「かけ離れたものの近さ」であるということを。私たちの東京とポーランド(ワルシャワ、ジェシュフ、イェレナ・グラ)での上演は、このような出会いの必要性の確認だった。「無」は「飽満」を求める。しかし、不完全さ、傷、不足は私たちの探究であり力であり自己同一性でもある。私たちの共同の旅には実際的な意味があるが、同時に、トラウマの力がある――トラウマがあるからこそ、私たちは差異を認めることができる。そして、私たちは差異が力を強めるのを感じる。私たちは、差異に対処するのではなく、そこから力を汲み取る。

 劇団解体社の俳優たちがテアトル・シネマの芝居に参加し、テアトル・シネマの俳優たちが劇団解体社の芝居に加わることは、単なる交流・増強ではない。何よりも、差異を排除せずに現代世界の諸問題に対する新しい注釈と共同存在を創り出す共同体の確認である。とはいえ、芝居に参加する各々の自己同一性と個人の伝記を個人的に読み取ること抜きに、共同存在を思い描くことは難しい。ここでは、「小」が「大」を支える。もっとも、「大」として私たちが理解するのは、私たちの主人公たち=俳優と演出家の個人的な運命であり、「小」として私たちが理解するのは、時・場所・文脈である。

 次は、私による簒奪、そしてGT(劇団解体社)とTC(テアトル・シネマ)のスタイルの、私による個人的な読解だ。私は、差異に百パーセント自覚的でありながら、類似性を探す。

 簒奪すなわち観念を説明しないこと。私たちの作業の中心は俳優の敗北にある。私たちは俳優を、起こるべきことの中心の場所に据える。俳優の失墜、そして当然ながら彼の復活を眺める。私たちにとって記憶は創造より大きな意味を持つ。新しいことを創るのを止めよ、古いことを記憶せよ、または、古いことを創るのを止めよ、新しいことを記憶せよ。そのように認識され準備された俳優は、即興による探究の途上で、主題に対する共同存在に接近する可能性を持つ。けっして説明するのではなく。時間を無駄にするのではなく。共同存在している。時間を食べる。観念の説明は介入であり、それは行動の速さに有効性への期待をかける。

 トカゲは尖った舌を蠅の方に伸ばす。主題に対する共同存在は、努力と時間を費消する実践である。実践は約束するがそれを守ることができるのは、俳優である私であり、その際私は失墜と復活によって共同存在の証拠を与える。自分の尾を食うトカゲ。
脇見せず、身体も精神も中心に置くこと。脇見にも意味はある。私たちの生まれながらの饒舌、忍耐の欠如、そして私たちの好きなこと、すなわち情報の過剰――これらは無意味なわけではない。しかし、それには然るべき時が来るだろう。共同存在の約束(観念の主題に対する)は守られるか否か――それは、忍耐と誠実にかかっている。ここで、使い古された言葉を加えるならば、到達への試みにおける純粋さにかかって。。。と、ここに私は、三つの句点を打ってしまう。これは思考の停止ではなく、3通りの結論である。

 最初の句点=結論。自分の仕事に注釈をつけること。注釈は、動物の保護色と同じ機能を果たす。演出家は作業が終わると、俳優のポーズをとる。芝居の中に入ろうとするが、すべての扉は閉じられている。子どもたちがするように、窓越しにガラスに鼻を押し付けて室内を覗き込むことはできるかもしれない。注釈とはそのような試みであり、そのようなポーズである。

 観念は、思考の外に出るとき細部を殺す。私は、俳優が細部を重視して行う仕事と認識の形式を含めて、俳優を知りたい。俳優たちは普通、芝居の全体に自らを関係付けようと試み、演劇の全体は開かれたプロセスとしてのみ受容され得る/受容されなくてはならないことを、しばしば忘れる。

 個々の観念は、自らに具体性を従わせ、それを支配しようとする。しかし、観念の具体性は、細部を通してのみ表現され得る。同時に、細部の混乱は観念の明瞭さ・具体性を危機に陥れる。この文脈において、演出家としての私の課題は、俳優たちが必ずしも意識的でない無数の細部から、有効な身ぶりまたは行動(「観念の表現に対して最も近い関係性にある」と言われるもの)を選び出すことにある。

 その際、混乱は創造プロセスの避くべからざる負荷であり、そのようなものとして、統合され維持されていなくてはならない。

 一つ一つの場面における削除や重複はいずれも混沌の印象を与えるかもしれないが、極めて精密に練り上げられていなくてはならない。なぜなら、それらは観念・混乱・細部の関連性に依拠しているからである。このような結合の困難さは、ユーモアの要素を導入することで、和らげれる/強調されるかもしれない。しかし、ユーモアとオチを混同してはならない。ここでのユーモアは、さまざまな文脈のずらしや並び替えから生まれる。

 ずらし。私は現実全体の様相を1ミリメートルだけずらす。この混乱が、秩序の必要を引き起こす。私は、「混乱―秩序の必要」の上にドラマツルギーを構築する。

 二つ目の句点=結論。芝居。私はここで、GKとTCの類似性から逃げる。エゴイスティックに自らについて語る。私の名はズビグニェフ・シュムスキ、テアトル・シネマの人間だ。

 私は二つの概念を適用して、自分の仕事をより精密に定義する――「断片性」と「凡庸な思考の地図」。

 「凡庸な思考の地図」とは、絵で描いた芝居の脚本である。絵に描かれた芝居は、口で説明された芝居と違う。俳優の課題は、絵に入り、絵から出ること――それのみだ。『不思議の国のアリス』に匹敵する難題だ――絵の向こう側に移ること。

 俳優は指示書=メソッドを受け取る。そのメソッドこそ、断片化である。創造は完全に自由だが、一つだけ限定がある――私はこれを義務と呼びたい。実現すべき課題が与えられ、それに反応しながら、彼はそれを最小限化し、いくつかの身ぶりにまとめる。しかしそうした身ぶりもまた、独立した断片でなくてはならない。問題は、こうした身ぶり/積木のブロックが自らのうちに、エチュードの感情的記憶を内包していなくてはならないことにある。それが私に、世界は全体によってより断片によってより容易に描き出すことができるという確信を与える。この義務を課せられた俳優は、ここで、統合への機械的欲求に断片と記憶を対峙させる。俳優にしばしば見られる、演出家の権力に自らを委ねようとする欲求は、ここでは、断片を作者として独立して創造することに取って代わられる。作者としての俳優は、芝居に対して百パーセント責任を負う。構成に対してではない(その責任を負うのは演出家だから)。断片を感情的に制御することに対してである。プロセス(私はこのプロセスを、「統合への意欲への警戒」と「エチュードとの最初の接触に対する能動的な記憶と忠実さ」を均等にすることと定義したい)に意識的に参加することに対してである。

 三つめの句点=結論。いかなる文も閉じることのない句点。欠点(あら)探しをすること。句点(=結論)=欠点。腹の穴を通して世界を眺めることは、そうした突破口になるだろう。臍=記憶。


(演出家・画家/テアトル・シネマ)
訳: 久山宏一