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Tokyo Ghetto, CCA, Glasgow

Mary Brennan


東京を基盤に活動する異端(*訳注:maverick)の劇団解体社の作品には、ある一つの要素が終始一貫して見られるようだ。それは「目に見えないもの」である。たとえば、豊かで見たところ文明化された社会においても、あらゆる種類の残虐行為、堕落、不公正が起こりうるわけだが、これらは決して表だって認知されることがないので、とどのつまりは、存在しないものとされてしまう。『Tokyo Ghetto』のような作品は、そんな目隠しされた安心感に立ち向かい、ゆさぶりをかけるものである。

この芝居は女性が平手打ちされるところから始まる。彼女は後ろの壁に寄りかかり、その剥き出しの背中をスーツ姿の男が素早く続けざまに打つのを抵抗もせずに受け入れる。われわれにはなぜだかわからない。彼は彼女の肉体で太鼓のような演奏をし、彼が打つにつれ彼女の白い肌は赤くなり、紫になり、今にも血が飛び散りそうな状態にまでなる……しかし、これは芝居だ。そうではないのか?だから我々はじっとしたまま、干渉しようとしない。しかしこれが現実にあることだったら、果たして干渉するだろうか。そしてこれがもし、(ありがたいことに)閉ざされた扉の向こうで起こっているとしたら、いったいどうして知ることができようか。

そして、平手打ちはまだ続いた……意外にも、外の光景によっていちだんと絶望の度合いを深めながら。この劇空間の閉ざされていない窓を通して、道路をはさんで実際にいる人々が、現実の生活の場面場面が見えた。煙草を吸う男。ベッドにはい上がろうとする幼い少女。彼らは皆、通りをはさんで行われているこの残酷な行為に気づいていないのだ。

絵に描いたようなこの対照は、後に起こった全てを、無意識にではあるが力強く補強するものだった。何気なく、尊大な無関心さを指し示すイメージが、映写された文字とニュース映画の断片と共に並置され、これらが消費中心主義社会—このような社会では、女性、動物、難民、といったたぐいのカテゴリーを、あたかも消してしまっても構わないものだ、とみなしているようだ—の偏見に対し、身を切るような、しかも熱烈な取り組みを見せていた。むち打たれるような不快さ、偽善と利己主義に対する極端ではあるが悲しくも賢明な理解がここにはある。




THE HERALD紙 (9/Jun.1997)