これは演劇の未来かもしれない
Tokyo Ghettoとポスト・メインストリームの芸術
David Adams
最近では演劇の危機的状況について熱心に議論することなくては、観劇後心静かに一杯やるのは難しいことだ。もっともらしい理由がなければなおさらだと人は言うだろう。全くつまらなくて、見当違いの芝居が、ひどく沢山ある。
だから我々は、演劇というものは、通常の感覚でいう芝居や、登場人物、あらすじ等でなくてもよいし、それらを構成要素として持つ必要もないのだということを、思い出さなければならない。これらのほとんどは、テレビの方がもっとうまくやれるからだ。
チャプター・アーツ・センターの新しい演劇製作者であるゴルダナ・フヌックは、「ポスト・メインストリームの演劇」について語る人である。これに関して言うなら、カーディフの日本演劇シーズンで最近上演された劇団解体社のTokyo Ghettoに勝る例はないだろうと思う。
チャプターの劇場の空間は、観客が片側に沿って座るように変形されていた。同じ側に、正面を向いた二つのテレビモニターの画面、そして端の方にはそれより大きなスクリーン。最初から下着姿の二人の女性が、頭を包帯で巻いて、台の上に立っている。
まず亡霊のような女性が登場し、ゆっくりと動き回る。すると、4番目の女性が入ってきて、我々に背中を向けて座る。そして陰気な黒い服を着た男がひざまづき、彼女の剥き出しの背中を打ちならす。彼の手は情け容赦なく平手打ちを続けるので、彼女の肌は紫色になる。それから彼は向きを変え、彼女の足を広げると、腿に尽きることのない、リズミカルな平手打ちを繰り返す。
それは私が演劇で目にしたもののうち、最も恐ろしい光景の一つだった。だから、観客がなぜこのシーンに干渉し、怒りを込めて中断したことがあるのかを理解できた。
これは、催眠術のようであったり、恐ろしかったり、不快であったりする、多くは言葉のない一連の場面を従えた出だしの部分であった。モニターの画面は、例えばサムライ剣士や、日本が受けた戦後の屈辱とその継承などのフィルムや、我々が目にし、我々の前に生きているものの多くを作り出そうとすると同時に切り離そうとしているように見える社会の証拠物件を映し出していた。
この公演は明らかに文化のみならず権力についてのものであり、このニつの関係についてのものである。
しかし、もし演劇に未来があるなら、われわれはそれをここで見たように私には思われる。
The Western Mail紙 (17/Jun. 1997)