零 (ZERO) カテゴリーⅡ
今野裕一
アヴァン・ギャルド、つまり前衛という言葉は西欧では現役でも日本では死語に近い。しかし解体社はまちがいなく日本における数少ない前衛の集団の一つである。解体社は劇団とは言いながら台詞は使わない。言葉もほとんどでてこない。身体によってのみ表現を行う。しかし踊りではない。身体表現の背後に言葉があるのだ。身体を震わせながら歩き続ける裸の女。逃げようとする女の腕を激しくひっぱり胸に抱きとめる。そして離す。ぱちっという肉体がはじける音が伝ってくる。男の皮膚はみるみる赤く染まっていく。アルトナン・アルトーの残酷演劇の伝統にも似て、身体を極限まで追い込んでいく。
前衛の条件はいくつかあるだろうが、一つは社会批評であり、もう一つは表現の先鋭性である。
解体社は身体の表現をとことん追求している。そしてイメージとしての身体ではなく、論理や言葉を背後にもつ身体表現を獲得している。しかも解体社の身体は現代社会の中で身体がどういう状態に追いつめられているかを表現し批判している。デジタル環境の中での身体。その環境の中で放置され無秩序になり、それゆえに簡単に管理されてしまう身体。そうした身体をリアリティをもって描いていく。
見ていて思ったのだが、映像が流されてその前で身体が動くシーンがある。そのときに身体を見る私はどこかほっとした快楽的な気分になる。身体がいかに酷(むご)く動いていても、視覚的に受け止めてしまう。映像の無い時、解体社の身体表現は、現実のことがらよりも強くシリアスに伝わってくる。
身体は今、映像とヴァーチャル表現の中で快楽的に消費されているのだ。しかし現実の身体そのものは打ちすてられ、統制されて苦しんでいる。身体の先鋭表現によって「零カテゴリーⅡ」が描き出しているのは、そうした現代の身体のあり方そのものなのである。
公明新聞 8月13日 1998年