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今月選んだベストスリー

西堂行人



最近、ある芝居を見ながら、「この演劇は必要なのだろうか」と問うてみたことがある。もちろん、演劇に何を求めるかによって「必要」の度合いも違ってくるし、「必要」とは、やる側/見る側双方に等しく探られるものだろう。たしかにそれなりの劇場に行けば、そこそこ面白い娯楽に出くわす。ではそれが「必要」かというと、どうも違うのである。「必要」であるためには、もう少し必然性のある何かが要るのである。

蜷川幸雄は自前の小さなカンパニーをもち、年に一回上演しているシリーズがある。この6月に上演した『1998・待つ』は、なかでもすこぶる刺激的な試みだった。このカンパニーは蜷川が若い俳優たちと共同で未知なるものを探るための場で、無名の俳優だからこそできる実験精神が基盤になっている。とくにわたしが感心したのは、いくつかの場面のコラージュで構成されている最終景で、ハイナー・ミュラーの『メディアマテリアル』が使われていたシーンである。その前の景で、アーノルド・ウェスカーの『調理場』が演じられ、散乱した調理場が舞台に溢れ返るなか(まさにそれは資本主義のゴミ溜めだ)、メディア役とおぼしき女優が登場する。そしてテネシー・ウィリアムスの『欲望という名の電車』のセリフと並行して、廃墟の底から立ち昇る怖気とともに、絶望的な孤独の淵に佇む現代人の女の姿を浮かび上がらせた。『メディア・マテリアル』の第一景『荒廃の岸辺』は、まさにかくやあらんと言わんばかりだ。ミュラーの "強い言語" をどういうシチュエーションに置き、俳優に発語させるかに心を配った蜷川演出に、わたしは舌を巻いた。「観客が誰も来なくてもいいじゃないか」(蜷川)。こういう野蛮な実験精神でしか現在の演劇家は仕事ができないのではないか。柔な観客や多数派の暴力に屈していたら、芝居などやるに価するものでなくなっていく。演劇が「必要」となるのは、現場で孤独を飼わざるをえない演劇家の危機意識からしか生まれてこない。

別の意味で『必要』と思わせたのが、解体社の『零カテゴリーⅡ』(作・構成・演出/清水信臣)だった。アートスフィアの広い空間を二人の俳優が登場する。片手を挙げたたポーズをとったまま、天井から降りてきたベルトに吊られ。やがてゆっくりと女優は、天に向かって吊り上げられていった。このショッキングな幕開けから、舞台にはさまざまな形象が生み出されていく。ただしセリフはほとんどなく、物語がそこで語られるわけでもない。だが、この舞台には何か得たいの知れない "予感”めいたものがそこに投げ出されていく。たとえば半裸に近いかたちで肉体をさらす女優たち、目隠しされた男たちの脅迫的な動き、背後のスクリーンに次々と映し出される不穏な映像、そして「戦争を平和から救い出さなくてはならない」という逆説的なメッセージがマイクを通して届けられる。赤錆のついた壁が持ち込まれ、その前面で、男女たちが執拗に脱出と監禁の行動を繰り返す。実際の空間にさらされた俳優たちのひしひしと迫り来る現実に抗しようとする意志が、演劇を生みだすのだろう。その時「肉体」は現実と演劇の媒介項となる。つまり俳優の「肉体」は、爪先だって世界と拮抗するのだ。

この劇をベルリンで見たならば、この「壁」はもっとシンボリックなものとして受け止められたろう。ボスニアや戦火のくすぶる地域では、より連想を喚起したかもしれない。だが、ここは日本である。無責任と無力感が覆い尽くした国家なのである。「危機」を暴き出す解体社のパフォーマンスは、トーキョーのさまざまな局面を写し出す「鏡」でもあった。

テアトロ誌/1998年10月号