現代演劇 世界と対話求め

清水信臣



私は、解体社という劇団を主宰している。このほどクロアチアの首都ザグレブで開催された演劇祭、ユーロカズフェスティバルに招かれ、そこで「Tokyo Ghetto」という作品を上演し、また前後してザグレブ近郊の町を巡演してきた。

きっかけはこうだ。昨秋、東京で開催された芸術見本市という催しのために来日していたこのフェスティバルのディレクター、ゴルダナ・フヌック氏が私たちの公演を見にきた。終了後、彼女は私たちの作品を「次世代の演劇」と評価し、演劇祭への参加を要請した。

「ポスト・メインストリーム」。ー俳優の身体をビジュアルアーツの美学から救出せねばならない—彼女は簡潔にこのフェスティバルの性格を語った。「それは魅惑的なイメージで観客を誘惑したりはしない。制度や構造といったイメージに先行するものを問題にする」。このことは私たちが作品を通して問うてきた、つねに/すでに(何かに)さらされてしまっているこの時代の身体のアクチュアリティという部分と共振している。私は演劇祭の参加に同意した。


内戦後の町を散策


公演の一カ月前、私は劇団の舞台監督と劇場の下見のためにザグレブを訪れた。二人で町を散策する。旧ユーゴスラビア内戦の「戦後」、この街に「異人種」は存在しない。おそらく私たち二人だけだっただろう。牧歌的平穏と感性の停滞を感じながら私たちは記者会見場の階段を降りた。するとどうだ。会見場では世界各地から劇作家、演出家、批評家らが集い、熱いメッセージを交換しているではないか、私は緊張しながらも安堵(あんど)する。異種混交ー演劇の現場はいつもこうであってほしいー。

「やあ、随分と早くやってきたね」と問われ、「いや、僕らの作劇は半分を現地でつくる。場所の特性を生かしながらね」。皆は大きくうなずいてくれた。


「反戦」をテーマに


さて仕事だ。造りは小さめだがゆったりとしたロビーと二階席を持つプロセニアム形式の路地裏劇場「シアター・ケレンプ」。公演に向けて、照明の種類、台数、音響システム、楽屋回り、舞台の機構など、限られた時間の中ですべての情報を正確に把握していかねばならない。

そのためにはなによりもまず劇場側スタッフたちと親しくなること。我が劇団の舞台監督は若いが優秀な男だ。軽妙な話術で彼らを笑わせながら必要な情報を聞き出しノートにひかえていく。談笑のなかで、これからともに仕事をする喜びを異国の人たちと分かち合う。こんな時間はとびきり楽しい。必要な情報交換も終えてしばしの世間話。話題が映画にうつると舞台監督は「アンダーグラウンド」の感想をしゃべりだす。と劇場側スタッフの笑い声は消えてしまった。「俺たちは旧ユーゴのことなど思い出したくもない!」。

私たちと彼らとのあいだにつらい壁が立ちはだかる。芸術が国境を越えるなどということは口でいうほど生易しいものではない。ましてやコンテクストレス(無文脈)な日本の現代演劇が、一体、いかなる方法でー。私はこのとき、ここで「反戦」をテーマにした作品「Tokyo Ghetto」を上演することに決めた。


怒号と喝采のあいだに


初日、冒頭のシーンが罵声(ばせい)と怒号で迎えられた。男優を舞台から引きずり降ろそうとする観客が出現するにいたり場内は騒然となる。冒頭のシーンとは、男が女の背中と太ももを彼の体力の限界までリズムに合わせて平手で打ち続けるというもの。このシーンは東京公演でも物議をかもし、セックスレス時代の愛の交歓などとさまざまに評された。だが私は端的に暴力の表象といいたい。視線、言説、医療、私たちの身体はいま、ありとあらゆる暴力にさらされている。身体は戦場なのだ。その事実を演劇表象にふりむけることー。

いつしか男の暴力は去り、女たちは日本国憲法九条の朗唱の中を進軍していく。怒号はやみ、劇場は再び秩序を取り戻す。私は思い出す。あのベルリンの壁の崩壊した年、ある外国のプロデューサーに聞かされた話を。「我々が君たちに求めているのはアジア的優しさをもった演劇なんだ」。アジアは、日本は本当に優しいのだろうか…いや、私たちの演劇はオリエンタリズムに与(くみ)しない。私たちは対話を望んだのだ。憎悪を媒介にし、タブー抜きの、真に対等な対話を。

舞台は進行し、粉々に砕け散り、意味を失いただの音声となった憲法九条の朗唱が、もはや捕囚されモルモットと化した俳優たちに捧げられる。喝采が巻き起こった。

終演後、ゴルダナ氏から、来年から英ウェールズで新しく始める企画「イコノクラスティック・シアター」に参画しないかとの申し出を受けた。演劇表象をめぐる保守性を乗り越え、従来の美学から解放しようとする試みに、私は共感している。



日本経済新聞 1996年8月8日