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危険な解体社

平田俊子


ひと月のあいだに、というか半月のうちに、解体社の公演を二本観た。東京芸術劇場中ホールでの『THE PROSCENIUM/TOKYO GHETTO』 (95年9月13~14 日)と、浅草フランス座での『オルギア』(95年9月21~24日)。 一劇団の公演がなぜ立て続けに行なわれたかというと、この時期、演劇祭が重なったからである。

『TOKYO GHETTO』は東京国際舞台芸術フェスティバルの、『オルギア』は下町演劇祭の参加作品。 新しくて清潔だがどこかよそよそしい芸術劇場と、大勢の人の体温が蓄積した浅草のストリップ小屋、まったく雰囲気の違う空間で同じ劇団の公演を観る体験はなかなか風味深いものだった。芸術劇場はフランス座の何倍も舞台が広いだけにさまざまな表情をもった演出が可能で、そのぶん客席から見える世界も広がった。

といっても、最初舞台は狭かった。幕がひかれ、その手前で役者たちは動いていた。途中で幕が上がると、それまで見慣れていた手狭な舞台が、みるみる茫洋とした空間に変わる。 さっきまでそばにあった役者のからだが、ずっと遠くへ去っていく。自分と舞台との関係が突然あやふやになり、自分の位置がおぼつかなくなる。 暗く果てしない荒野が目の前にどんどん広がっていくようで、いいようのない不安を覚えた。

広くなったステージの左右には、だらしなく黒幕がせり出している。そこにひとり の女が走って登場し、まず一方の幕をたぱね、つぎに反対側に走ってそちら側の幕もたぱねた。ふつうなら不都合なものとしてあらかじめきれいに整えられたであろう 黒幕。けれど、それさえ与えられた状況として受け入れ、対処の仕方を解体社は舞台で見せた。 いや、もしかすると黒幕はわざとせり出されていたのかもしれない。舞台装置(=フィクション)を前もって用意するのではなく、すでにあるもの(=ノンフィクション)を取り込むこと。 それが解体社の姿勢なのかもしれない。互いの差異を認め合うこと。名前も国籍も性別も年齢も取り払った一個の個体としての自分にたちかえること。 そこから世界をとらえること。そういうことの必要性を解体社の舞台は示唆しているように見える。

解体社の舞台は流動的である。シナリオに基づく芝居ではないから、状況に応じていかようにも変えられる。いってみれば、結果ではなく、過程の舞台。 今日観た舞台が絶対ではなく、明日はまた違うものを提示することも可能である。事実、今回観た『TOKYO GHETTO』は、3月に解体社のアトリエの本郷DOKで行なわれたものを芸術劇場用に改めた内容であった。 確かに私たちはいつだって生のただなかを漂うばかりで、結果を知ることは永遠にできない。 まるで人間の一生のように解体社の舞台は過去をなぞりながら少しずつ形を変えていく。そういうことが可能な柔軟さをもっている。

95年に観たなかで、解体社はもっとも興味深かった劇団のひとつだ。でも、その魅力をどういえばいいのだろう。 役者たちは無表情。セリフらしいものもストーリーもほとんどなく、断片的なシーンが無言のうちに展開されるだけである。 が、寝た子をおこすような不穏な空気が解体社の舞台には立ち込めている。足もとをじりじり あぶられるような危機感を解体社の舞台を観ていて覚える。

たとえばこんなシーンがある。『TOKYO GHETTO』の冒頭、六人の女たちが下着姿で登場する。 統一されることを避けるように、スリップの人、ブラジャーとガードルの人、ボディスーツの人と、全員違う格好をしている。 彼女らの下着姿には色気というものはあまり感じられない。というのは、男の視線を意識し、装うためではなく、外界から自分たちの身を守るための鎧として、下着に身を包んでいるからだろう。六人の女は椅子に腰掛ける。背広の男が登場し、一人の女のからだをリズミカルに打ち始める。初めは背中、続いて太もも。 女は身じろぎせず、表情も変えず、男が打つに任せている。男は苦しげな表情を浮かべながら、女のからだを打ち続ける。と見えて、いつしかその手は自分のももに移っている。境目を見極めるのが難しいほど、打たれる対象が一瞬にして入れ替わるのだ。 男は自分のももを激しく打ち続け る。なぜ女を打つのか、なぜいま自分を打ちつつあるのか、そこにはどれだけの違いがあるのか、人を打つ行為とは何なのか。いくつもの問いが頭に浮かぶが、解答が何も見つからないうちに、舞台はつぎへと移っていく。

『TOKYO GHETTO』にはまたこういうシーンもある。男と女が向き合って立つ。女が男の頬を打つ。男は最初打たれるままだが、そのうち腕を上げて女の腕をさえぎる。何度もこのシーンが繰り返されたあとで、女は男のほうに倒れ込む。男はこれを受けとめる。どんな無理な態勢でぶつかっていっても、そらさず受けとめ、高く抱え上げる。 二人は同じ方向をしばらく黙って見つめる。さっきまで向かい合い対立していた男女が、そろって同じ方向を見ている。 徹底的に相手を試したあとに生まれる絶対的な信頼関係。そのようなものがうかがえて、羨望に似た感情を覚える。 でも、果たしてそういうのどかな情景なのか。同じ方向を見ているからといって、同一のものを見ているとは限らない。 全然別の光最を眺め、違うことを考えていることのほうがはるかに多い。 男が女を受けとめる行為にしても、愛情といった甘ったるい理由からではなく、単なる義務的な行為かもしれない。 倒れかかる者をつい受けとめてしまうのは、人の習性のひとつかもしれないのだ。

行為の意味をいちいち探るのは、あるいは無意味なことかもしれない。 二つの相反する感情が同じ行為を取らせることもあるし、感情が伴わなくても行為は成立し得る。 意味を探ることは、行為を記号化することにつながる。とは思いつつ、解体社の舞台はあまりに戦略的であり、読み解く作業を強制されているように感じる。 どのように舞台を観、どのように解釈しようと自由のはずが、役者の、というより演出の清水信臣氏の意図を探ることを強いられているように思う。

清水氏は、いまという時代を切り取って舞台に提示してみせる。その手腕はあざやかで、なるほど世界はいまこうなっているのかと容易に納得させられそうになる。 清水氏の提示する世界には、物語への幻想はなく、どこまでも冷ややかな現実がある。 また、革命への夢想もない。覆されるべき確固とした階級も価値観もなくなったこの国では、革命を夢見る余白などおそらくあり得ないことだ。 清水氏の演出には説得力があり、興味と共感、同時に危機感を抱く。清水氏の描くままに世界を把握しかねない怖さを、ふと覚えてしまうのだ。 柔らかな暴力とでも呼びたいような危険性を解体社の舞台は孕んでいる。柔らかな暴力は、相手に暴力とは気づかせず、時に快感さえもたらすだけに怖さは倍加する。

《あいもかわらず『物語』というフィクションを押しつけてくる国家主義的な思考 に対抗するには、徹底した断片化の手法を舞台表現のレベルで構築するほかない》と 清水氏は語っている (東京国際舞台芸術フェスティバル'95公式プログラム)。が、〈断片〉の〈構築〉によってもたらされるものが国家主義的でないと果たしていいきれるのだろうか。 清水氏の差し出す断片を、観客は頭のなかで再構築する。その過程で、清水氏に少しずつ洗脳されてしまうこともあるだろう。 〈物語〉ではないだけに、解体社の舞台を引きずったまま観客は日常に帰っていく。その日常は解体社により少しばかり脚色されている。 まったく、解体社は観客をどこに導こうとしているのか。解体社はおもしろい。でも観るときはじゅうぶん注意して観なくてはいけない。


武蔵野美術No.99 1996年1月 所載