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実りゆたかな混乱

「バランス・フェスティバル」における、人道的なテロリズム


ギーセナー・アルゲマイネ紙 (4/Jul.1997)


(マールブルグ発)劇場は物音一つしなかった。白い下着をつけただけの女が六人、舞台の上で六つのいすに腰をおろしている。黒い服を来た一人の男がやってきて、一人の女のむきだしの背中を両手でたたきはじめる。リズムに乗った打擲が何分間も続く。突然、男は女をぐいっとうしろむきにし、両脚を左右に押しひらき、女の太ももを左右に押しひらき、女の大腿を前よりもいっそう強く、いっそう速く、たたきつづける。やがて男は自分の大腿を同じ調子でたたく動作へと移り、何分間か緊張感あふれる速い動きを続けたのち、ばったりと倒れる。そして、物音一つしない幕開きの沈黙がもどってくる。

「バランス・フェスティバル」の火曜日夜に上演された、日本の劇団・解体社の『東京ゲットー/オルギア』の第一場は、このようなものだったが、それは客の神経にざらりと触れてきて、けっして心地よいものではなかった。第二場は、たたかれる女がたたく男に、同じ仕打ちをくりかえすよう要求するという点を除けば、第一場をそのままくりかえすものだったが、客の多くはまちがいなく戸惑っていた。第三場は、前二場と打って変わって音響が威嚇的な高音をとどろかせ、そのなかで役者たちが支離滅裂な動きをまとまりなく展開し、あちこちで一対一の決闘をくりひろげるが、ここに来て混乱はその極に達した。観客は野蛮で無意味な暴力と単調な拷問を目の前にして、頭がぼーっとなりそうだった。

暴力の表現がめざされているのだ。強者が弱者を痛めつけるというもっとも基本的な暴力の表現が。演出家清水信臣は妥協する気などない。終演後の討論で、清水は、無意味な暴力の表現によって反暴力への思いが呼びおこされる、と、自分の立場をあきらかにしていた。「われわれは説明しようとは思わない。表現したいのだ。なにより、〈美学〉の束縛を断ち切りたい。」

たしかに、聴覚的な刺激や視覚的な刺激を攻撃的に利用し、観客に挑戦的に迫ってくるこの劇作は、美学的ではなかった。耳を聲する騒音のあとに張りつめた静寂が何分間も続いたり、顔に包帯を巻いた女優が舞台の最前部で胸をはだけた体をくねらせたり、一人の女が肌が朱に染まるまでたたかれたりするのは、目をおおいたくなる所がある。が、作品は信頼を置けそうに思えた。

はじめに登場する無意味な暴力が、やがて一つの流れに組みこまれ、意図がつかめるようになるのだ。妥協のない一貫した歩みをとまどいながら見ているうちに、観客は暴力の世界に引きいれられていく。暴力を拒否したいとの思いが、暴力の構造の一端をなすことがあきらかになってくる。伝統的な意味でのカタルシスが生じるのではなく、呼びさまされるのは実りゆたかな混乱なのだ。けれども、そうした理解に到達するには、だれもが口にするような常識的な演劇観ときっばり手を切らねばならないが、それは多くの人のよくなしうるところではないだろう。

『東京ゲットー』は、東ヨーロッバの先進的な前衛演劇祭「ユーロカズ・フェスティバル」(ザグレブ/クロアチア)で、1996年に発掘された。イギリスでの公演ののち、ドイツではマールブルグでのみ上演された。脱構築の劇作をめざす清水は、作品の具体的な構成をたえず組みかえる。「わたしたちの制作の<証人>となるはずの観客のあいだに、生き生きとしたコミュニケーションを呼びおこせたらいいと思う。」

一つの可能性が一つながりの過程として提示された。それは人を混乱させるだけなのか、それとも新しい理解をうみだすのか。それはどちらともいえないが、いずれにせよ、この作品を前にして無関心でいることはできないのだ。




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