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虚構と現実の間で断片化され投げつけられる刺激的な問い

今野裕一


一人の俳優が歩いてきて、目に涙をためながら、独白のような台詞を語る。終わると冒頭から繰り返される。一度目の台詞からいくつかの文章が落ちて二度目は少なくなっている。そして三度目が繰り返される。またさらに文章が落ちている。言葉を断片化する過程を見せて、劇団解体社の「TOKYO GHETTO Ⅲ 瀕死のアナーキー」は始まった。

ここに解体社のいくつかの特色がすでに見て取れる。言葉はほとんど使われない、あっても叫び、あるいは、何かの切れ端として提示される。肉体が、極度の、それでいて意味から切り花さえた断片化を見せる。

そして肉体をも断片化しようとする。たとえば涙である。動いている、行為、そして台詞などと関係なく、涙を流す。あるいは、思い切り相手の頬を平手打ちする。虚構に住んでいる演劇の肉体を、ときおり、今、ここにある生身の肉体であると、観客に意識させて相対化する。言えば、虚構と現実の間に、肉体を断片化するということだろう。

解体社の舞台では、演劇の様々な要素の解体、断片化が行われる。
断片化することで、たしかに表現は強くなる。物語の甘美さと枠に捕らわれることがなくなるからである。しかし伝わる信号の数が少なくなり、切れ切れの向こうの統一を想像しがたくなる。そしてノイズも混入しやすくなるので彼方の総体はおぼろになる。

彼方にある総体には、政治性、物語、論理いろいろな構成物もあるだろう。それが全部断片化してこちらに投げかけられる。極端に言えば、断片は感覚の領域に属する。だから詩人の書く断片はかなり正確に受けとめることができる。しかしロジックのあるものを断片化して、感性化すると、受けとめるほうは、二度の回復作業をすることになる。必然的に、断片化という作業が観客に強烈に突き付けられることになる。

たしかに、解体社の文法に慣れることで、作業をしなくても、おのずと受けとめられるようになるかもしれない。現代の表現は、美術にしても、演劇にしてもその歴史を知らなくては正確には受けとめられないからだ。

しかし解体社の演劇は、演劇の問い以前の問いをしているように思う。
解体社を見ながら、演劇が何度かにわたって解体作業をしたこの二十年のことを思い出した。六○年代の後半にあった、肉体の再見は、たしかに肉体の強度を、そしてリアリティを復活しようとした試みであったが、それ自体を美学に入れてしまったために、舞台の中にあっさりととりこまれてしまった。解体社の演出方法は、その危険からは見事に逸脱している。そして実験のための実験という生硬さからも逃れている。

しかしいくつかの疑問が頭をよぎる。
我々が捕らわれているものから、身体的強度を持つ、あるいは強調することによって、脱出することが出来るのか?

ただでさえ、個が分断されて存在しているときに、その個に向かって切れ切れに投げつける、イメージと身体の、強度ある断片が、表現として有効か?

しかし観客に対する、刺激的な問いであることは、大いに評価したい。だから私はむしろ、観客に興味があった。どう受けとめていくのか。観客の感想、一人一人、を聞いてみたいと思った。



公明新聞 1996年3月9日