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「TOKYO GHETTOⅢ 瀕死のアナーキー」

劇団解体社 3月23日 本郷DOK


小林明仁


遅ればせながら僕が解体社を発見したのは、89年夏、福島県檜枝岐の路上であった。既成の劇概念を超克しようとする強靱な意志に貫かれたそのストリート・パフォーマンスに惹かれ、それ以後解体社に通うことになった。

解体社の公演は通常彼らのアトリエで行われることが多いが、自分たちの小屋を持っていることが「JEANNEー再定住者達ー」や「THE DOG三部作」といった優れた作品を生み出す原動力になったことは間違いないだろう(逆に、小屋の維持・管理も大変な作業だろうが)。

さて本公演も、本郷DOKなる解体社のアトリエで行われた。そこには一方の壁伝いに観客席が三段状にもうけられていて(40人くらいで満杯)、俳優や観客の息吹がダイレクトに伝わる密空間が成立している。

例によって本作品もストーリーは解体され、イメージの切断による断片化といった手法がとられているのだが、身体そのものにかかる比重が格段に高い作品になっている。行為を見せることよりも、身体自体を見せることに主眼が置かれているわけだ。

したがって、二人の女が演じる「怒れる身体」や女3人と男2人が繰り広げる「逃走する身体」のシーンは。長々と繰り返されることになる。圧巻なのは、「オン・パワー」と連呼されるだけのノイズ音楽に一人の男が共振し共鳴していくプロセスを最初から最後まで延々と見せきってしまう場面だ。

ここまで徹底的に俳優のリアルな身体が観客に向けてさらけ出される時、俳優と観客という境界線が消失して、痛みや苦しみを共有し合う新たな関係が生まれる。

「君が代」をピアノで弾いた代償として女の太股が鍵盤のように激しく叩かれ朱に染まる時、そしてまた、アウシュビッツのような状況下で男女の尊厳が踏みにじられる時、演じる俳優以上の痛みが観る者の心に鳴り響く。

勿論、こうしたことは、俳優個々のうちに観客と向き合おうとする強い意志があって初めて可能となる。検閲を受けた女が、自己の身体の一部であるかのように憲法九条を唱えるフィナーレが空虚に感じられないのは、彼女の肉声にその崇高な理念を内在化したいという強い意志が見えるからだ。

これほどテンションの高い作品と正面から向き合うのは確かに辛い。しかし、その辛さを自己の身体に引き受けない限り、女達の笑顔の背後にあるあのアトランタの駐車場—この場所で黒人の3人組から嘲笑され、たった一人で立ち尽くしたという女の独白から、この作品は始まった—は永久に見えてこないのだ。


ミュージックマガジン 1996年5月号