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解体社、もしくは「難民と収容所の演劇」

鴻 英良


難民は収容されなければならない。世界中の反動的な思想はそうした欲望を内に秘めている。ならば、われわれは難民化し、そして収容されてやろうではないか、河原や山林をさまよいながら、ときおり立ち止まっては、何がしかの演技をしてみせるという、独特のスタイルの演劇を続けていた解体社が、一昨年、東京にアトリエ「本郷DOK」をつくったとき、演出家の清水信臣はそのような野望を胸に秘めていたのではないかとぼくは思う。

いずれにせよ、解体社のその後の劇が”収容所のテーマ”とかかわっていたことはあきらかである。「本郷DOK」のなかで、解体社の役者たちが作り出しているのは、拉致され、収容されようとしている人々の状況なのだ。だが、解体社の役者たちは、そうした状況のなかで、狂気を演じたりはしない。難民は収容されても狂ったりしない。さらに「綺麗だよ」などといわれるための媚びも売らない。狂ったり、媚びを売ったりするのは、共同体のなかでのアイデンティティを回復したいと願うものたちの身振りなのである。あらゆるものが分散しはじめ、世界が内破しているようなときに、回復願望はもはやリアリティをもちえないのだ。

ディアスポラ(民族の離散)、ディセミネーション(国民の散種)、そうしたものに深い関心を示している解体社の役者たちは、だから狂気でも媚びでもないものをわれわれに提示するしかないのである。われわれがそこで見るのは、拷問であり、死刑執行であり、強制労働なのである。そして役者たちはそこでサイボーグのように振る舞い、サイボーグのように佇むのである。そして、彼ら/彼女らの置かれているそうした状況を目にしながら、ある種の感動を覚えざるをえないのは、われわれは自分たちの置かれている状況とかかわりのある何かを見てみたいと感じているからなのだ。

「このスパイラル・ダンスのなかで、私は女神よりもむしろサイボーグになりたい」「サイボーグ宣言」の中のダナ・ハラウェイの言葉が自然と思い出される。 



利賀新緑フェスティバル’95プログラム 1995年5月