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犠牲者たちの優位性


日本の劇団「解体社」が、クロアチアのアバンギャルド・フェスティバル「ユーロカズ」で公演


Arnd Wesemann


小さなスクリーンに「永遠、フォーエバー」とかかれている。しかしそれは(紙でできたクッションのような大きさの画面スクリーン)は炎となって燃える。数人の日本人女性がくらやみからその炎の間を登場してくる。白いコルセットに裸の手足で小さな椅子に座る。一番年長の女が後ろ向きに座りその裸の背中を示す。熊本演じるK氏が登場し、女たちの背中をなでる。それから殴りはじめ興奮して右手のリズムを速めていく。女の背中がが赤くなり血管が浮かびあがり、血の色の赤がうきあがった。

観客が「やめろ」と叫ぶ。K氏は女の背中を回転させる。女の両足をひろげる。女の顔はベールをかぶったように柔らかにみえる。K氏はしゃがみこみ、今度は女の両足を叩く。リズムを速め、女の白い両足も赤く血管が浮き出てくる。ブーイング、口笛がひびき、最前列の観客が飛び出してきて、K氏をつかみ倒そうとする。K氏は客に背を向けて一瞬静止、だがまた立ちあがると叩く動きを続ける。年長の女の顔に汗と涙の下にうれしそうなほほえみがうかぶ。さっきの男が二度目にさかんな拍手をあびながらK氏の上着をつかみ床に押しつけた。

この妨害者は後でビールを飲みながら自慢げにこう語った。はじめて拍手をあびて女性を助けるチャンスをもつことができた。家では、隣の女が毎晩夫に殴られていても助けることができなかった。何にもできずにベッドでその女が殴られる回数を数えていたからと。観客の拍手喝采の中、彼はついにクロアチアのザグレブのケレンプ劇場で介入することができたのだ。

このパフォーマンスは東京の清水信臣の演出によるもの。彼は静かでほっそりとした姿で頭をうつむきかげんにして、上演後にたえずタバコを吸いながらささやくように弁証法について説明講義してくれた。

殴られる者たちの権力について犠牲者たちの優位性について。というのも、いつかK氏の手が痛くなるからだ。K氏が自分の痛みで疲れてしゃがみこむと、小杉という女性がゆっくり立ち上がり、身をかがめてK氏を赤ちゃんのように胸に抱きかかえ、気をつけながら自分たちの場所につれていく。K氏はまた女たちの背中を殴る行為をはじめる。他方で5人の女たちは叩く人のリズムをとる。そして両足を叩きはじめる。両足が血管で赤くなるほどにきつく。

東京ゲットー/オルギアは解体社の作品で、二つの作品から成り立っている。「オルギア」は昨秋ストリップ小屋で上演されたもの。「オルギア」では少年のようにやせた女(日野(劇団註:実際は中嶋みゆき演じた)が顔に黄色い包帯をつけ、胸ははだけている。カトリック教のザグレブと違って、東京ではそのうえに口もふさがれ、両手も後ろ手でつながれ、そのふさがれた口で踊り、叫び、息も苦しくなる。

上演後、外国ではより普通のことなのだが、劇団の座付評論家の西堂行人氏(劇団註:西堂氏ではなく実際は通訳スタッフの大貫隆史氏のこと)が講演した。ヘアバンドをきつくしめて、言葉を探しながらそれをかきむしりつつ、彼は猿ぐつわをはめられた者たちの沈黙の叫びをアルトーで説明する。アルトーは魂の叫びを分節化された言葉の上位に置いたと。観客はこのテーゼにぶつぶつ文句を言う。

そこでその評論家は、アルトーと解体社の違いを主張した。アルトーは純粋に詩的な精神を求めているのに対して、解体社は「情報産業社会の柔らかいファシズム」を批判しているのだと。メディア産業により、大衆はもはや自分自身の言葉を分節化できなくなり、かりものの文句(フレーズ)でしか語れない。そこでは猿ぐつわをはめ、虚しく叫ぶことの方がより現実(真実)なのだ、と。この座付評論家は驚く観客に、現実はシュミレーションに裏切られている(売り渡されている)と告げる。演劇だけが猥褻な身振りで、リアルなものや恐怖、遊びを、メディアにおおわれた現実の中に再び持ちこむことができるのだ、と。この効果的に現実的なものだけが、演劇の格を高めるのだ、と。それによって自らを騎士(武士)階級に高めて、解体社は演劇アバンギャルドの上演様式に属すことになった。南ヨーロッパの最も刺激的なアバンギャルド・フェスティヴァルの小生意気で知的なディレクターであるゴルダナ・フヌック女史が簡潔かつアイロニカルに高貴なディレッタントたちと格付けた演劇アバンギャルドの様式に、である。ザグレブの中心地での彼女が主宰するこのフェスティバルは「ユーロカズ」といい、西欧の縁にあってひそかな有望株とみなされている。これまで10年目。この10周年をゴルダナ女史はヤン・ファーブル、ロバート・ウィルソン、ノルウェーの伝説的な劇団バクの後継者たち、ゴート・アイランド、そしてこの日本の解体社で祝った。

劇団解体社は今年の掘出し物です(昨年はフランス人、フランソア・ミシェルであった)。手で叩く行為がこの劇団の売り物である。その他の点ではそのゆっくりした集中はかつてのヤン・ファーブルを思わせる。体の濃密な儀式を騒がしいポップ音楽で中断するように、清水信臣はこれを10分間ものシークエンスに高める。たとえばユーロカズでの上演の後、やはり同じクロアチ・プーラでの上演では、鉄のカーテンをおろした前にK氏がたって「アウト・パワー」と叫ぶ。文字通り身体から魂が叫ぶ。かつてのヤン・ファーブルが舞台に蛙をもちだしたように。清水はモルモットを舞台のマスコットと呼ぶ。かつてのファーブルのテクストが力強い単純さできわだっていたように、解体社も最初の妊娠をオリンピックのアトランタで禁止された食後の一服について語る。

清水の演劇は舞台に移しかえられた俳句のような効果をもち、そのコレオグラフィーは舞踏のさらなる展開のように濃密な痛みをもつ。清水は、ハイナー・ミュラーに因んで彼が「画の描写」と名付ける演劇を描く。彼はその「画の描画」をひたすら疲労する身ぶりと叩きと沈黙の叫びで上書きする。役者たちはその両手で意味のないシグナルを送る。さらに清水は視線を止めるためにその画を速める。彼の上演では、私がクロアチアの地中海沿岸のプーラでみた第二の戯曲(作品)は文字通り「消尽」というタイトルなのだが、そこでは道路の交差点を映したビデオが流れる。この画面は目が凝視しはじめるほどの速さで映される。それと同じ原理で彼は自分の演劇を創る。身体はそれが凝固するほどの緊張の下におかれる。それでもなお未成熟で一見ぞんざいに書かれたような中途半端な印象を与える。ただし、入念で単純で決然とした下絵のように。そういうものをゴルダナ女史は「高貴なディレッタンティズム」と呼んでいる。

この十年間に、ゴルダナ女史は共産主義若者演劇フェスティバルを、今日インターナショナルなアバンギャルドに数えられる演劇の最も主要なフェスティバルに仕上げた。アンナ・テレサ・デ・ケースマエケル、ラ・フーラ・デル・バウスで1987年にはじまり、88年にはヤン・ファーブル、89年にはファラエル・サンチオ、ジョン・ジェスラン、イワン・シュターネフ、彼らはすべて一躍成功をおさめて名をなし、このクロアチアの周辺地で格を上げた。ここでは今日、たえず新しい雑誌がうまれ、19世紀の演劇美学が埋葬されていく。インテリたちがフランスのデリダやフーコー、ボードレール、リオタールなどを引き合いに、新しい演劇を呼び出している。

ゴルダナ女史は、イワン・シュタネフのフォルクスピューネでの「かもめ」を酷評したドイツの劇評をけしかけ(「高貴なディレッタンティズムだった」)、クリストフ・アルターラーを嫌悪し(「流行に乗って、商業的」)、なぜアヒム・フライアーがこんなに評価されているのかを理解しない(「彼がそこまで完璧ではないからこそ」)。とすればこの「高貴なディレッタンティズム」とは何なのか。

ゴルダナ女史は決して決して先を急ぎすぎてはいない。ヨーロッパXX会議の創立者の東欧唯一の一人として演劇の断固たる国際化を修正している。演劇がフェスティバルでナショナル・アイデンティティを失ってしまわないように、と。かつてのアバンギャルド演劇はとっくに商業的なメイン・ストリームになってしまった。それ以来、国際的な承認をめざし、たとえ挫折しようと本物をめざす演劇の試みを彼女は「ポスト・メインストリーム」と呼ぶことにしている。彼女のプログラムはクロアチア人にとって、たとえ切符が毎晩売り切れでもかなり途方もなく費用がかかる。それゆえゴルダナ女史は、(ユーロカズ)を去って、来年からはウェールズのカーディフでそれに比肩するフェスティバルをひきうけるという結論を出している。


Frankfurter Rundschau紙/文芸欄(1996年9月21日)