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新しい世界演劇の潮流を探す

クロアチアの演劇祭から

西堂行人


今年で十周年を迎えた〈ユーロカズ〉フェスティバルが、独立後まもないクロアチア共和国のザグレブ市で行われた。

[中略]

今年の〈ユーロカズ〉は、ロバート・ウィルソンの60年代から現在までの仕事を総括するソロ・パフォーマンス(未見のため詳細は不明)を皮切りに、ベルギーのヤン・ファーブルの二つの作品をメインとし、地元のクロアチアやお隣のスロヴェニアをはじめ、アメリカ、フランス、オーストラリア、ハンガリー、日本などから計十六カンパニーが集結し、六月十六日から二週間にわたって開催された。量的には、この種のフェスティバルとしてはさほど多くはないものの、質的にはきわめて高いものが並んでおり、期待に違わぬ演劇祭との感触を得た。

[中略]

日本から参加した劇団解体社の『トーキョー・ゲットー/オルギア(Tokyo Ghetto/ Orgie)』(構成・演出/清水信臣)が〈ユーロカズ〉フェスティバルの掉尾を飾ったことは、ある意味で象徴的なことだった。何故なら、この舞台ほどスキャンダラスでアグレッシブなものはなかったからである。わたしは東京で見る以上に、彼らの舞台が衝撃力をもっていることを当地で発見した。そのことを記そう。

6月29日に初日を迎えたこの舞台は、当初から人気を集め、五百人も収容できる劇場のチケットはソールドアウト、当日客が押し寄せるという盛況ぶりだった。客は入場と共に、戦争放棄を謳った日本国憲法第九条の文言が天井から吊るされたスクリーンに英語のスライドで映されているのを目にする。そして神経を切り裂く様な音楽が場内を不穏な空気で満たす頃を見はからって、スクリーンに火が投じられた。一気に場内は緊張が漲った。

舞台後方に立った男(熊本賢治郎)はもう一人の男(飯田幸司)に身体検査をされる。暗転の後、再び舞台に光が入ると、六人の女性が下着姿のまま椅子に座っている。男は上手前方で後ろ向きに座っている女性(小杉佳子)に近づくと、背中に手を触れ、やおら平手で背中を叩き始めた。いったいどれだけ叩き続けたのだろう。白い肌はみるみるうちに赤みを帯び、ほとんど内出血の体を示すところで客席からはため息が洩れ始め、それはついに「Stop it !」という静止の声となって発せられた。口笛が鳴らされ、開幕15分ほどで席を立つ観客(主に女性客)が続出した。こうして波乱を含んだ『トーキョー・ゲットー/オルギア』はこのフェスティバルでもっとも賛否を呼ぶかたちで観客の前に突き出されたのだ。

男は背中叩きを止めると、今度は女の足を掴んで前方を向かせ、足を開かせると、今度は腿を叩き始めたのである。やがて男は自らの腿を狂ったように叩き始め、次第に身悶えし、転がり、ついには力尽きてしまう。女はその男をまるでグレートマザーのように抱き上げ、椅子の前まで運びこむと、再び背中を向けて叩くようにと促すのである。すると非難の声が再び上がり、劇場は一時騒然たる空気に包まれた。男は赤く腫れた背中を再度容赦なく叩き始めたからである。ついにたまりかねた客の一人が男に手をかけ、芝居は中断された。

ヤン・ファーブルはこれまで五回も客によってパフォーマンスが中断されたと聞くが、私は日本の芝居で実際にこういう光景を目にしたことはなかった。しかしこの"アクシデント"は別の意味で演劇表現の危うさと観客意識の問題を浮上させた。

この劇に登場する俳優たちはすでにすべてを奪われた存在である。身分も名前も、社会的地位も職業も。そして東京という酷薄な町で生活する現代人は、すでにゲットーと化した管理空間の中で生きている。こうした主題をとことん突き詰めていくとき、それを皮膚への攻撃で示そうとする表現はどこまで可能なのか。

肉体的に加えられた暴力は事実である。そしてそのことに嫌悪する者も当然出てくるだろう。ではどこまでが表現なのか。観客はここまでが表現というフィクションで、ここからはそうではない、という仕切り線をその都度引いて、劇を見進めていく。その境界線が曖昧になり、見えなくなってくると、次第に不安になってくる。仕切り線を明確にしてもらって、安心したいのである。だがその仕切り線が一向に形成されてこないと、観客は突然暴力的になる。そして市民の良識というモラルが浮上してくるのだ。

この舞台で施行された暴力は、むろん一方的なものではなかった。男は叩き疲れた後、疲労のためか舞台上に倒れ伏してしまう。その男を抱きかかえ、再びさっきの椅子の前に連れてくるのは女の方であり、つまり加虐者と被虐者は相互転換的なものであって、決して固定された関係ではないのだ。だがこうした劇の構造を読み取ることと観客の生理的反応とは別物である。観客は劇というフィクションの手前で現実の感覚に覚醒してしまうと、もう受け止めがたいものになってしまう。観客の心の中に土足で入り込んでくるからだ。この危うさのなかで解体社の劇行為は遂行される。

この舞台は別の意味でヨーロッパの演劇というものを思い知らさせた。

ヨーロッパの劇場では、観客の意思表示は極めてダイレクトだ。終演後のブラボーやスタンディング・オベーションは日本人のわれわれの想像を絶する。その逆に気に入らないと、野次や怒号、ブーイングはそれに劣らず強烈である。上演中でもさっさと出ていくし、中途退出というのは観客にとって示威行為の一つなのだ。ベルギーのダンス・グループ〈ローザス〉は、ある公演で四百人の観客のうち百五十人が帰ってしまったことがあるという。日本の劇場ではこうした反応が顕在化することはまずありえないが、ヨーロッパの劇場は価値観と価値観がぶつかり合い、支援する者と打倒する者とがしのぎを削り合う、まさに「戦場」なのだ。

解体社は、ザグレブの観客の神経をいたく逆撫でしてみせた。だが、幕が降りたあとのカーテンコールでその感情は賞賛へと転じていたのである。これは演劇にとって見事な勝利であろう。

翌日、このラディカルなパフォーマンスの評判を聞きつけた客たちは、前日以上に劇場に駆け付け、地元のテレビ局が急遽取材に来るなど、むしろ反応は好転していたようだ。何事にも黒白をはっきり決着をつけるヨーロッパの観客はあいまいさを許さない。いいか悪いか、勝つか負けるかなのだ。その点、何事もあいまいにして事を荒げない日本の文化事情と著しい対照をなす。

わたしはザグレブの地で、解体社の底力を痛感した。解体社が〈ユーロカズ〉の起爆剤となり、大きな振動を与えたことはほぼ間違いないだろう。

[後略]



テアトロ誌 1996年9月号所載の評論より抜粋