Workshop/テアトル・シネマ

Don't teach me, touch me.


Conception

「テアトル・シネマ」メソッドに基づくワークショップ


補助的手段としての断片化

役を全体性として理解するなら、断片化はエチュードの最初の形を記憶する/接触するのを助けるものである。最初の接触の新鮮さと発見性は、断片化によって記憶され得る。

ワークショップの目的もまたそこにある。さまざまな断片を組み合わせ、また出発点に戻ること、その面白さの対極にあるのは、全体を記憶し、起こってしまったことを再現する試みを通して全体性の力を弱めていくという、習慣化された作業である。役を学ぶことによって最初の接触を改良していくことは、演劇の日常作業である。

役との直感に満ちた最初の接触は、リハーサルの過程で、習慣化し表面化していく。断片化は、例えばスタニスラフスキ・メソッドのような大メソッドに比べると小さなメソッドである。それは、奉仕的な実践として、俳優の知識と経験に有機的に組み込まれる。

「Don't teach me, touch me.」のスローガンは、このメソッドの核心をメタファーとして伝えている(哲学者アルフレッド・シュッツ〔1899-1959〕のことばを借りるなら、「Don't teach me, touch me.」のスローガンに、「私はそれをした。その理由は……」ではなく「私はそれをした。その目的は……」という副題を与えることができる)。

断片化は実践である。以下は、ワークショップのテーマ。

1.俳優―動き―対象―断片
2.俳優―動き―ことば―断片


「感情―記憶」

動きと身ぶりの感情的記憶は、物語に関係づけることを通して行われる。個々の身ぶりは記号であり、その背後に物語が隠れている。「物語」の語は、ここでは「感情」の語と入れ替えて用いることもできる。 身ぶりをその背後にある物語によって記憶することで、エチュードとの最初の接触の新鮮さを保つことができるようになる。それはまた、細部をその最初の形で保つことも可能にさせる。不可避のこととして多数回繰り返されることで滑らかになり、鋭さを失った身ぶりは、感情的記憶を思い出すことによって、最初の形を取り戻すことができる。訓練された身ぶりは空疎な装飾としての性格を帯びていない――その背後に物語があるからである。

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俳優は物語の内容に立ち戻りつつ、身ぶりをその最初の習慣化されていない形で再現できるようになる。動きのなかに物語が存在するとはいえ、動きは、観客が解読しなければならない暗号ではない。内容あればこそ、俳優たちは動きと身ぶりを記憶しやすくなる。物語その自体は、あくまでも俳優の所有物、その神秘、そのアイデンティティ、その孤独の力でありつづけるのだ。


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演出家のノート

「観念は細部を殺す」という考えから出発する。私は俳優たちに、細部に基づく作業と知覚の形を教えたい。
 俳優たちはふつう、舞台の全体に自らを関係づけようとし、その際しばしば、上演の全体は開かれたプロセス、細部と全体の間を能動的に均衡させるプロセスとしてのみ、把握される可能性がある/把握されなければならない、ということを忘れる。あらゆる観念は具体性を従属させ、それを支配しようとする。しかし、観念の具体性は細部を通してのみ表現され得る。同時に、細部の混沌は、観念の明晰さ/明白さを脅かす。
 この文脈において、演出家としての私の課題は、俳優たちが必ずしも自覚していない無数の細部、身ぶり、有効な(すなわち、観念の表現と最も近い関係にある)行動の中から選び出すことにある。
 その際、混沌は、創造的プロセスを進行させるのに不可欠であり、そのようなものとして、有機的な一部として保持されなくてはならない。
 私は、「断片化」と「凡庸な思考の地図」という二つの概念を援用して、自らの仕事をより正確に定義する。
「凡庸な思考の地図」とは、舞台を絵で表した脚本である。線描された舞台は、言葉で解説された舞台とは異なる。役者の課題は、絵のなかに入り、そこから出ることだけである。『不思議の国のアリス』のアリスに与えられた課題と等しい――すなわち、絵の向こう側に移動すること。
 役者は、「メソッド」という指示書を受け取る。断片化こそが、この「メソッド」である。
 創造は完全に自由なものだが、一つだけ制限がある。私はこれを、むしろ義務と呼びたい。実現すべく課せられたテーマに応えるに際し、役者はそれを最小限にまで限定し、いくつかの身ぶりにまとめる。しかし、これらの身ぶりもまた独立した断片でなくてはならない。問題は、これらの身ぶり/積み木の一片一片のなかに、エチュードの感情的記憶が含まれていなくてはならないことにある。

ズビグニェフ・シュミスキ

日程/ Schedule
2011年
11月/16日 [水]・17日 [木]・18日 [金]・19日 [土]
19:00〜21:30
会場/ Space
伊丹アイホール  Tel: 072-782-2000 Fax: 072-782-8880
料金/ Ticket
4000円(全日)
申し込み・問い合わせ/ Booking
日本演出家協会セミナー Tel/ Fax 03-5909-3074(日本演出家協会) 
090-6510-5549(担当: 佐々木

Workshop/ 解体社

肉体・身体・人体

Conception

「人間」の廃棄

…説明のために少し補助線を引かせてください。90年代以降私はずうっと「身体の演劇」と言い続けているのですが、つまり「身体」がどのような状況になっているのかを演劇を通して考えてきたわけです。で、まず言えることはそれ(=身体)はきわめて歴史的なものであると。たとえば私が演劇を始めた70年代中頃まではこの「身体」というのは「肉体」と言われていたんです。それから、「身体」と呼ばれて。そして私は今「人体」と言い始めているのです。
 ところで、60年代には「肉体」というのは〈反乱〉と一緒に語られていました。「肉体」が近代のヒエラルキーを転倒すると。つまり知性と感性というものがあったときに、その階層をひっくり返す、転倒していくのだと。革命のイメージと肉体の反乱はまさに同義語だったわけです。それが敗北したときに「身体」が登場したのだと私は思っています。
 「身体」——つまりこれは〈生成的なもの〉と〈構築的なもの〉が、いわばこれまで対立していたものが一体となっていくというか、〈知性〉と〈感性〉が一体化して〈知覚〉といわれるようになりましてね。例えればアポロン的なものとディオニュソス的なものがお互いに対立したり一体になったりしながら生成と構築を繰り返す、というイメージのなかで身体の可能性が、当時進展しつつあったメディア・テクノロジーとの共存とともに語られていたんですね。



ビオス/ゾーエー

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それで、いま、私が問題化している「人体」というのは、アポロン/ディオニュソスという概念で、この「肉体」なり「身体」を捉えるのではなくて、アガンベンなどが持ち出してきた「ゾーエー」のことであって、いまや「身体」は「ビオス/ゾーエー」という対で語られなければならないのではないかと、思ったんですね。で、この「人体=ゾーエー」というのはそもそも徹底して無抵抗で、いわば人間の身振りを忘却したような、ほとんど応接の不可能性的なようなものを身にまとった存在——私は「身体の要塞化」と呼んでいるのですが、そういった存在とどのように演劇が関われるのかということを、いま考えているわけです。…
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剥製体

様々な古今東西の重要な演出家達の文章や発言についてこのところ参照をしているんですが、とりわけ私にとって近しいというか重要なものはやはり土方巽の語っていることですね。
 よくね、土方のことを土着的身振りの回帰とか、「東北」へのノスタルジアとかそんな言葉でもって伝統の中に博物館化しようとする向きもありますが、私はそう思わなくて、むしろ彼の語ったことっていうのは今非常にアクチュアルなんじゃないかと——たとえば「剥製」とか「衰弱体」といっている。「剥製」というのはどういうことかというと、私の考えでは、要するに「見られる」、こう他人から見られたときにね、通常は見返すのですね。よく演技の指導なんかでも「はっきり相手の目を見てフォーカスしてしゃべれ」とか言われるわけですよ。だけど「剥製」は一切そういうものを無化してしまう。
 どういうことかというと、見返すのではなく映させるのだということ、この眼球の表面に映させる。いわば自分の体をスクリーンのように扱うというか、そういう概念ですね。これはもう絶対的な受動性に晒された身体、ある意味でゾーエーと言ってもいいような状態を名指しているようにも聞こえてきます。…

清水信臣
(鴻英良氏との対談より/2008,1.27)

日程/ Schedule
2011年10月
・24日 [月]/亡骸と形骸—「残像」をめぐって
・25日 [火]/ニューロ系—舞踏性あるいはリズムの専制に抗して
・26日 [水]/対と群れ—コンタクトとフィジカリズム
19:00〜22:00
会場/ Space
FreeSpace CANVAS
料金/ Ticket
1500円/ 一回
申し込み・問い合わせ/ Booking
 劇団解体社 Phone/Fax: 03-5802-5387